時代の「潮流」を読み名門を存続させた山名豊国
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第74回
■「潮流」を読んだ決断とその代償
豊国は因幡山名家の当主である兄豊数と共に、毛利家の支援を受けた客将の武田高信(たけだたかのぶ)の謀反により、国を追われています。1573年には、尼子(あまご)旧臣の山中鹿之助(幸盛)たちの助力を借りて、鳥取城の奪取に成功し、城主となっています。
兄の死により当主を継いだ豊国は、毛利家の調略に応じて寝返り、尼子再興軍を窮地に追いやりました。
1578年ごろになると、表面上は毛利家に従属しつつも、播磨方面で勢力を拡大しつつあった織田信長と通じるようになります。織田家の中国攻略が本格化してくると、第一次鳥取城攻めにおいて豊国は三ヶ月におよぶ籠城戦で対抗し、和議に持ち込んでいます。
その後、織田家の圧力が弱まり、再び毛利家に従うと、織田家寄りと見られていた豊国は城主の座を奪われます。代わりに毛利家重臣の吉川経家が迎え入れられます。
織田家による中国攻略が再度本格化すると、毛利側を支持する家臣たちと袂を分かって単身で、秀吉の元に赴き降伏します。ただし、降伏の理由については諸説あります。
そして、「鳥取城の渇え殺し」と呼ばれる徹底した兵糧攻めで、かつての居城は凄惨な状況に陥り、城主の吉川経家(きっかわつねいえ)の切腹を条件に解放されます。
結果として、豊国は「潮流」を見て織田家を支持した事で城を失ったものの、命だけは拾うことができました。
■「潮流」を読み大名並みに復帰
豊国は豊臣家への仕官を断り、浪人として諸国を放浪していたようですが、その家柄や経験などから、秀吉の強い意向により御伽衆(おとぎしゅう)に加えられたと言われています。
また、この頃に、新田を自称する徳川家康とも懇意にしていたようです。ある時に豊国が足利家の分家である斯波義銀(しばよしかね)に謙虚すぎる姿勢をみせたため、家康が苦言を呈したという逸話があります。
1592年から始まる文禄・慶長の役では、遠征軍の前線基地である名護屋城に同行するように秀吉に命じられ、秀吉死後には形見分けも受けていたように、豊臣政権内でも相応の立場を得ていたようです。
そして、関ヶ原の戦いが起こると、徳川方として行動を開始し、尼子再興軍の残党である亀井茲矩の幕下に加わり、山陰方面の西軍攻略に参戦します。
かつての居城である鳥取城攻めにも加わったようで、戦後にその家柄と功績などから但馬国にて6千700石を得ています。石高としては1万石未満ですが、大名並みの統治を任される交代寄合となっています。また、宗家である但馬山名家が断絶したため、豊国の家系が宗家を継承していきました。
室町幕府の名門の多くが衰退していく中で、豊国は時代の「潮流」を読み、一度は領地を失いますが、最終的には山名家の存続に成功しています。
■生存競争で重要となる「潮流」を読む力
豊国は衰退していく山名家を、社会情勢などの「潮流」を読み、従属先や同盟相手を巧みに変えて、生き残らせることに成功しています。その結果、徳川家の親類扱いの京極家ほどではないものの、山名家は大名に準ずる格式である交代寄合として幕末まで存続できました。
現代でも、社会情勢の「潮流」に敏感に対応した結果、一時的に不遇な立場に陥ってしまうことはよくあります。
もし、豊国が毛利方として第二次鳥取城攻めでも城主として籠城していれば、吉川経家のように英雄とされたかもしれませんが、名門山名家は断絶していた可能性があります。
ちなみに、山名家は幕末においても「潮流」を読み、早くから新政府軍に協力した事が評価され、1万1千石への高直しが認められて大名となり、男爵となりました。
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